第8回 日本で初めて「第九」が演奏された場所 板東俘虜収容所

第一次世界大戦の時、日本軍は中国の青島(チンタオ)でドイツ軍と戦い、これに勝ちました。敵兵約4700人を日本国内に連れ帰り、戦時捕虜として収容することになりました。
この人々を収容するための施設、俘虜(ふりょ)収容所が大急ぎで日本各地に作られました。その一つが徳島県坂東町(現在の鳴門市)の収容所です。
実はここが、日本で初めて「第九」が演奏された場所なのです。
収容された兵隊の多くは元からの軍人ではなく、青島の植民地で生活する普通の人たちでした。家具や楽器の職人、肉屋やパン屋、農家、ウィスキーの専門家もいたそうです。戦争が始まったので、志願して軍隊に入った人たちでした。おそらく、すぐに戦争に勝って元の生活に戻れると考えていたのではないでしょうか。
ところが、結果は正反対。ドイツ軍は敗北し、兵隊たちは日本軍の捕虜になってしまいます。
慣れない軍隊の生活から、見知らぬ外国に連れてこられての虜囚暮らし。戦況は故国の不利が伝えられ、先の見えない閉ざされた状況のつらさは想像に余ります。
収容所の生活は不自由で厳しいもので、特に体の大きなドイツ人にとって、日本の家屋の狭さは苦痛でした。
殆どの収容所が俘虜たちを厳しく取り扱った中で、坂東俘虜収容所では少し様子が違いました。

所長の松江豊寿中佐は、俘虜たちにスポーツや農業、文学・音楽活動も許していました。
その中で演奏された曲の一つが、ベートーヴェンの交響曲第9番「第九」でした。1918年(大正7年)6月1日のことです。
ドイツ兵の中には何人か専門の音楽家もいましたが、楽器も演奏者も絶対的に不足でした。そもそも、当時の軍隊はすべて男性だったのでソリストや合唱もすべて男声向けに編曲し直さなければなりません。
今の私たちが想像する以上に大変なことだったと思います。
それでも、「歓喜に寄す」を歌いたい、どうしても演奏しなければならない、という強い思いがあったはずです。

徳島県鳴門市では毎年6月には大規模な「第九」演奏会が開かれて全国から演奏者が集まります。
収容所の跡地近くには「道の駅 第九の里」という施設があります。
収容所を舞台にした映画「バルトの楽園」もここで撮影されました。
1919年11月ドイツの降伏により戦争は終結し、翌1920年にかけて俘虜たちは順次帰国しました。
しかし170人は日本に残り、洋菓子店やハムの会社を起こしました。