第13回 ベートーヴェンは鉛中毒だったのか?

ベートーヴェンが1827年3月26日に永遠の眠りに就いた際、盟友のフンメルが連れてきた15歳の弟子のフェルディナンド・ヒラーは、許可を得て偉大な作曲家の髪の一房を切り取った。そしてこのヒラーこそが、親子3代に亘って2度の大戦を経て現代に、ベートーヴェンの遺髪を遺してくれた恩人なのである。
現在、この遺髪は米国カリフォルニアのサンノゼ州立大学内にあるベートーヴェン研究センターに寄贈され
て他の貴重なコレクションとともに展示されている。実はこの遺髪は何度か消失してもおかしくない、数奇な運命を経て現代に無事遺された驚きの遺品なのである。ユダヤ系ドイツ人のF・ヒラーはフンメルに師事して才能を開花させ、ベートーヴェンを見舞った際に「人生を芸術に捧げ尽くすように」との言葉を受けてパリに出た。当時のパリは「若きフランス派」と称されていた芸術家集団が大活躍していた時代。作家のユゴー、バルザック、ハイネ、サンド、画家のドラクロワなど。そして音楽家ではショパン、メンデルスゾーン、リストとヒラーが「パリ4人組」を結成し、演奏会やサロンのリサイタルは大盛況で、ヒラーも作曲家・音楽家として名声を博したのであった。
しかし、現在このヒラーの名を知っている日本人がどれだけいるだろうか。ヒラーはショパン、メンデルスゾーン、リストのような偉大な作曲家にはなれなかったのである。友人のシューマンも「我々がどうしても抗えないような、圧倒的な力に欠けている。」とヒラーの音楽を評している。
私には寧ろこのヒラーの名が世界史に記録されるようになったのは、彼が大切に保管し、子孫に託したベートーヴェンの遺髪の保持者としてではないかと思われる。遺髪は後にオペラ歌手として大成した息子のパウエル・ヒラー、同じくオペラ歌手の2人の孫(エトガルとエルヴィーン・ヒラー)に引き継がれたのだが、1930年代はナチスのユダヤ人に対する迫害が激化し、身を守るために一家はドイツからデンマークに亡命したのであった。しかしデンマークでもゲシュタポの急襲(ギレライエ教会事件)を受けて、遂にヒラー家から遺髪はオペラファンだったデンマーク人医師に託されたのであった。戦後、この遺髪は更に数奇な運命を辿って、ベートーヴェン研究センターに保管されることになったのである。
こうして現代にもたらされたベートーヴェンの遺髪からいったい何が分かったのか?
現代遺伝学の最高レベルの研究により、この遺髪がベートーヴェン本人のもので間違いがないということがDNA鑑定で実証された。さらにこの遺髪を分析した結果、ベートーヴェンが重度の鉛中毒であったということが判明したのであった。
実に健常者の40~50倍もの鉛がその毛髪から検出されたのである。「ハイリゲンシュタットの遺書」と言われている手紙に残されているように、ベートーヴェンを生涯苦しめた重度の腹部の痙攣、嘔吐、下痢、関節痛、癇癪、視覚障害と耳疾、難聴、そして聴力喪失などの諸症状はこの鉛中毒が原因なのであった。
ではどこからこの重度の鉛中毒はもたらされたのか。これはあくまでも推測の域を出ないが、ベートーヴェンが無類のワイン好きであったこと、当時はワインの酸味を減らすために鉛をワインに添加したり、鉛を塗った器で飲用することが多かったのである。因みに死の床に就いたベートーヴェンに出版大手のショット社から見舞品として贈呈されたのも当時の貴重なワイン、リューデスハイム・ワイン(注1)だったそうである。
今では考えられない事ではあるが、嗜好品のワインに含まれていた鉛がベートーヴェンを苦しめたのである。特に死を迎える最後の1ヶ月はその体を蝕む耐えがたい苦痛と格闘し、「まだまだ自分が作曲すべき音楽があるのだ!」という強い意志で、驚異的な生命力で作曲を続けるなど、まさに超人的な意志と忍耐力の持ち主だったのだと思われる。
最後に、2014年7月に急逝したマエストロ ロリン・マゼール(注2)は「ベートーヴェンは私にとって優れた大作曲家。氏の交響曲にはあらゆる交響曲のエッセンスがあり、それが凝縮され、無駄なく構成されている。つまりベートーヴェンを演奏することで、毎回交響曲とは何かを考えることが出来る、だから何度振っても価値がある」と評している。

注1:リューデスハイム(Rüdesheim am Rhein ヘッセン州ラインガウ・ダウヌス郡)はワイン醸造の町

注2:マエストロ ロリン・マゼールは浜松フロイデ合唱団が参加した1994年の浜松市主催の「第九祝祭合唱団」でバイエルン交響楽団を指揮

参考文献:「ベートーヴェンの遺髪」R.マーティン著(白水社) 「音楽現代8月号」 「音楽の友9月号」