第17回 ベートーヴェンの遺書

2016年3月、某旅行会社企画のウイーン楽友協会で開催された第九演奏会で歌う機会が有り、初めてウイーンを訪れた。演奏会後の観光で、ウイーン郊外(北へ5kmほど)のハイリゲンシュタットに有る「ベートーヴェン遺書の家」を見学した。緑豊かな、閑静な住宅街の一角に、その家はひっそりとした佇まいを見せていた。木々に囲まれ、古びた建物の屋根は苔むし、難聴に苦しんだ末に遺書を書いた当時のベートーヴェンの苦悩が伝わって来るようであった。当時の館内はこじんまりとした二部屋で、この遺書の他、直筆の楽譜、毛髪、デスマスクなど、数多くが展示されていた。(2017年、リニューアルオープンしている。)

ベートーヴェンが甥カール、弟ヨハン宛に遺書を書いたのは1802年、32歳の時であった。

「偉大なる行為を成し遂げることを、私は自分自身から進んで行なうべきだと考えてきた。しかし考えてみてくれ、6年このかた治る見込みのない疾患が私を苦しめているのだ。(中略)いまではこの状態が永続的な治る見込みのないものだと言う見通しを抱かざるを得なくなったのだ。

人との社交の楽しみを受け入れる感受性を持ち、物事に熱しやすく、感激しやすい性質をもって生まれついているにもかかわらず、私は若いうちから人々を避け、自分一人で孤独のうちに生活を送らざるを得なくなったのだ。

耳が聞こえない悲しみを2倍にも味わわされながら自分が入っていきたい世界から押し戻されることがどんなに辛いものであったろうか。しかも私には人々に向かって『どうかもっと大きな声で話してください。私は耳が聞こえないのですから叫ぶようにしゃべってください。』と頼むことはどうしてもできなかったのだ。

音楽家の私にとっては他の人々よりもより一層完全でなければならない感覚であり、かつては私がこのうえない完全さをもっていた感覚、私の専門の音楽畑の人々でも極く僅かの人しか持っていないような完璧さで私が所有していたあの感覚を喪いつつあるということを告白することがどうして私にできたであろう…。(中略)

そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい、自ら命を絶とうとするばかりのこともあった。(以下略)」

遺書はベートーヴェンの死後1827年3月に発見された。しかし遺書を書いた後、彼は交響曲第3番「英雄」を作曲し、「運命」「田園」「第九」「ワルトシュタイン」「情熱」など、『傑作の森』と言われる創作期に突入する。一度は死を決意した後、再び彼を奮い立たせたのはどのような力であったのか―。今年も第九演奏会が近づいて来た。私たちには計り知ることのできないベートーヴェンの心の懊悩に思いを馳せつつ、万感を込めて演奏したい。              

(参考資料 ハイリゲンシュタットの遺書、永井千佳の音楽ブログ)