第11回 アーノンクール

00_アーノンクールS【指揮者】ニコラウス・アーノンクール
【管弦楽】ヨーロッパ室内管弦楽団
【ソプラノ】シャルロット・マルジョーノ
【メゾソプラノ】ビルギット・レンメルト
【テノール】ルドルフ・シャシング
【バリトン】ロベルト・ホル
【合唱】アルノルト・シェーンベルク合唱団
【録音年月】1991年6月
【録音状態】良
【レーベル】Teldec
【コメント】
20世紀から21世紀にかけてのクラシック音楽界を精力的に改革し続けた偉大な指揮者、ニコラウス・アーノンクールが2016年3月5日、その86年の生涯を閉じた。マエストロの逝去を悼み、その偉大な足跡を偲ぶ意味で、本稿は予定を急きょ変更して、故人が1991年に録音した第九を紹介したい。
演奏は、ひとことで言えば知性に溢れ、品格を備えている。テンポも表現も決して激情を表すことはなく常に理性的である。しかしそれは単なる「控えめ」ということではなく、楽譜と時代の様式に沿って考え抜かれた結果であることがよくわかる。要するに、感情の赴くままに演奏しているのではないのだ。このあたりがアーノンクールの真骨頂と言えるだろう。
アーノンクールと言えば、その音楽キャリアの初期は古楽器による演奏を得意とした指揮者、というイメージが強いが、この第九録音の10年ほど前からは次第にモダン楽器によるオーケストラとの仕事も増えてきた。現にこの第九も、奏法こそ古楽器奏法が用いられているものの、楽器そのものはトランペットを除いてはすべてモダン楽器のようである。トランペットだけはナチュラル・トランペットを使用するようにオーケストラに求めているが、その理由をマエストロは「ベートーヴェンの曲においてトランペットは常にファンファーレの性格を担わされているが、これをモダン・トランペットで高らかに演奏しようとするとどうしても音量が大きくなり過ぎてしまう。音量を抑えるとファンファーレ的な響きが損なわれる。ナチュラル・トランペットを使うことによってこの問題は解決される。」と語っている。実に深い考察だと思うし、この演奏を聴くとそれが見事に効果を発揮していることに気づかされる。
ティンパニも第三楽章まで終始ずいぶん控えめである。第一楽章の再現部におけるフォルテでの執拗なロール打法も、第二楽章のソロイスティックな連打も、実に理性的な処理がなされていて、ここに大きな期待をしている向きには肩すかしを食った気分になるだろう。
ただ、最終楽章の後半になると、ティンパニが合唱のフレーズとフレーズの間をつなぐブリッジ的な役割で突然背景から前景に躍り出てくるようなところが頻出する。これも心憎い演出と言える。
そしてティンパニと言えば、この第九では第四楽章のAlla marciaに入る直前の、例の合唱が vor Gott と咆哮するフェルマータで、ティンパニはひとりディミヌエンドする。すなわちブライトコップ旧版の指示のままである。実は、アーノンクールはこの第九を演奏するにあたって、いや第九だけでなくベートーヴェンの交響曲全集を録音するにあたって、ベーレンライター版を使用している。第九においても、ほぼベーレンライター版に忠実に演奏している。しかし、このvor Gott はそれでも敢えてブライトコップ旧版のままにしたのには、アーノンクールの深い考察があったものと思われる。独自の原典研究の結果なのか、あるいは美的欲求によるものなのか、今となっては知る由もないが、実に興味深い。
ソリストの歌声は四声部とも実にバランスよく聴こえる。普通はソプラノだけが目立って聴こえるものだが、この録音ではそうではなく、メゾソプラノやバリトンの動きも鮮明にわかる。また合唱に関しては、折り紙つきの優秀な合唱団、アルノルト・シェーンベルク合唱団が美しい歌声を聴かせる。Seid umschlungen で始まるAndante maestosoの男声合唱が非常にソフトである。むしろ女性的でさえある。またこの部分を含め、全般的に合唱に対して語尾の抜き方を非常に細かく指示されていることがわかる。いかにも細部にまでこだわるアーノンクールらしい処理のしかたである。
「時差嫌い」とかで、生前来日の機会はあまり多くなく、そのせいか日本ではさほどメジャーな扱いをされていないような印象を受けるが、今後残された録音によってもっと正当な評価を受けることになるのではないだろうか。ご冥福をお祈りしたい。

次回は、前回予告したトスカニーニの第九をご紹介しよう。

(ドクトルじんじん)