第12回 トスカニーニ

00_トスカニーニS【指揮者】アルトゥーロ・トスカニーニ
【管弦楽】NBC交響楽団
【ソプラノ】ヤルミラ・ノヴォトナ
【メゾソプラノ】ケルステン・トルボルイ
【テノール】ヤン・ピアース
【バリトン】ニコラ・モスコーナ
【合唱】ウェストミンスター合唱団
【録音年月】1939年12月
【録音状態】下
【レーベル】Music & Arts
【コメント】
20世紀を代表する巨匠のひとりであるイタリア人指揮者、トスカニーニは、一般的にはいわゆる「新即物主義」と言われる芸風で、楽譜に忠実で、演奏者による過度の感情表現を嫌う音楽家と見なされている。ところがここに紹介する第九は、決してそうとばかりも言い切れない。
たしかに全曲を通じてみれば、テンポの採用などは楽譜のメトロノーム指示におおむね忠実で、ライバルであったフルトヴェングラーに見られるようなほとばしるばかりの表現は少ない。淡泊な演奏と言ってよいだろう。
しかし、一方で楽譜の改変はかなり施している。ワーグナーやワインガルトナーによって提唱された改変はほぼすべて取り入れているし、むしろ先人がしていない独自の改変を積極的に行なっている部分すらある。第一楽章のティンパニなどはその例で、この曲におけるティンパニは連続した音型が1小節か2小節、ふと穴が開いたようにとぎれる部分が多々あるが、トスカニーニはそういった箇所でことごとくその穴を埋めるように音符を足して演奏させている。この音型のとぎれを、ベートーヴェンが意識的に作って聴く者に不安感、緊張感を与えようとした、とは解釈せず、単なる書き忘れている部分を埋めた、という態度である。前者を聴き慣れた耳には、トスカニーニのそれはかえって不自然にも聴こえるが、興味深い比較ではある。
また、オペラ指揮者としての血が騒ぐのか、第四楽章になると急に感情移入が激しくなるように感じられるのもおもしろい。終曲近い806小節目と827小節目の二度、合唱がAllegroのテンポでAlle Menschen, alle Menschen, alle Menschen と畳みかけてからAdagioに突入する部分があるが、トスカニーニは二度とも、この最初のAlle Menschenの小節からテンポをガクッと落している。つまり、Adagioを4~5小節先取りしているのである。「新即物主義」どころか、ずいぶん自由な指揮ぶりに思えるが、ライブならではの感情の高まりであろうか。
ライブと言えば、この録音では痛恨のミスが一か所聴ける。第二楽章のティンパニに、264小節以降20小節にわたってフォルテからフォルテシモで連打する聴かせどころがあるが、なんとこの録音では1小節多く21小節連打したあげく、動揺したのか、今度は6小節休んで290小節から次の連打を再開するべきところ、2小節出遅れて292小節から入っている。この部分は繰り返しで合計三回演奏されるが、これは一回目だけであり、二回目、三回目は楽譜通り演奏されているので、一回目がミスであることは明らかである。いかにライブだとは言え、ティンパニストにとってもっとも活躍できるこの部分でこんな初歩的なミスを犯し、かつ録音によって後世にまで残されたのは、まことに痛恨の極みと言うしかないだろう。
Alle marcia のテノールソロで、Brüder の語の譜割りがすべての場所で楽譜通りないのが、違和感がある。語尾のderが最後の八分音符でだけ発音し、結果的に真ん中のüが長いのだ。これは明らかに楽譜に書かれた譜割りではないが、これはあるいは、611小節のBrüderのリズムがこのような形なので、トスカニーニがそれに統一させたのかも知れない。
同じ時代を共に大指揮者として生きたトスカニーニとフルトヴェングラーは、第二次大戦前にその政治的な立場から相容れない仲となり、ある時路上で遭遇して大喧嘩となった、というエピソードが残る。このエピソードを聞くと、この二人こそがwas die Mode streng geteilt(時代が厳しく引き離した者)だったのだ、と思い知らされる。そして、残念ながら彼らは終生、Deine Zauber binden wieder(神の不思議な力によって再び結び付け)られはしなかった。

次回は、今や我が国を代表する国際的指揮者となった佐渡裕の、新日本フィルハーモニーとの演奏(2002年録音)を紹介しよう。

(ドクトルじんじん)