第10回 ノリントン

00_ノリントン(2)S【指揮者】サー・ロジャー・ノリントン
【管弦楽】ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
【ソプラノ】イヴォンヌ・ケニー
【メゾソプラノ】サラ・ウォーカー
【テノール】パトリック・パワー
【バリトン】ペッテーリ・サロマー
【合唱】ロンドン・シュッツ合唱団
【録音年月】1987年2月
【録音状態】良
【レーベル】EMIクラシックス
【コメント】
このCDで指揮をするサー・ロジャー・ノリントンは、1934年イギリス生まれの現代の指揮者である。いわゆる「ピリオド様式」と呼ばれる古楽器による演奏様式、演奏方法の研究家としても知られ、自ら古楽器を用いたオーケストラを編成して研究を実践している。このCDで演奏を担当しているのがまさにその古楽器オーケストラ「ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ」である。また、若いころは自らテノール歌手としての経歴もあり、そのときに自らが結成したのがこの録音で合唱を務める「ロンドン・シュッツ合唱団」である。したがって、このCDはノリントンが手兵を使って自らの研究成果を存分に音にした作品、ということができよう。
この稿を書くにあたって、CDを聴き直しながら段落ごとにノリントンが採用したテンポを実測し、ベートーヴェンが残した楽譜の指示と見比べる、という作業を行なってみたが、この演奏で採用されているテンポは実に楽譜に忠実であることが再確認できた。
そう、この演奏はベートーヴェンが残した楽譜に忠実なテンポなのだ。ところが、この演奏を聴いてみると多くの人はテンポに関して非常に違和感を感じるはずだ。それは、われわれの耳がいかにベートーヴェンの指示とはかけ離れた演奏に慣らされてきたか、ということであろう。とくに顕著なのが第三楽章である。これは、聴いてみると何とも速い。実際、第三楽章の所要時間を確認してみると、これまでこのシリーズで取り上げてきた過去10枚のCDの中で最短である。最長の所要時間をかけているのが、容易に想像できるようにフルトヴェングラーであるが、19分41秒、それに対してノリントンは11分8秒である。フルトヴェングラーの1.8倍のスピードで第三楽章を駆け抜けていることになる。また、第四楽章についてもテンポに対する違和感は多い。各段におけるわれわれの常識的なテンポ感、重々しいところと軽快なところが、この演奏ではすべて逆になっているように感じられる。しかし、再度申し上げるがこれが楽譜に示されたベートーヴェンの指示なのだ。
では、この演奏で現代のわれわれが感動できるか、と言えばそれはまた別の問題だろう。やはり先人は「いかに感動的な音楽を創りあげるか」に腐心してきた結果、現在よく知られる第九の様式に落ち着いてきたように思われる。ベートーヴェンが書いた通りに演奏することは歴史的な意味やベートーヴェン研究の意義はあるかも知れないが、純粋に音楽を楽しみ感動を得る、というのとは別の次元であることがよくわかる。
とは言え、この演奏が完成度の高いものであることに異論はない。古楽器が奏でる独特の音色は現代のオーケストラでは得られないものである。とくに、木製フルートのさわやかな響きや、小さなサイズで乾いた響きを奏でるティンパニなどに注意していただきたい。ナチュラルホルンのゲシュトップ奏法による音色の変化なども楽しめる。
ソリストたちはやや控えめである。名人芸を披露するために前に、前にと出てくる他のソリストとは違って、ここではソリストもアンサンブルの一員としてのスタンスを固く守っている。また、合唱団は少人数で非常にクリアな歌声を聴かせている。
楽譜に関しては、この録音年代(1987年)を考えるとベーレンライター版刊行の9年も前であり、いわゆるブライトコップ旧版が疑問の余地なく使われていた頃であるにもかかわらず、のちにデル・マーが指摘してベーレンライター版で改訂された箇所がいくつか先取りされている。第一楽章300小節目(再現部に入る直前)のティンパニを八分音符から十六分音符に変えている点や、第四楽章の有名な vor Gott の部分のフェルマータを、ティンパニをディミヌエンドさせることなくオケ全体で強奏するよう改めていることなどがそれである。さすがに研究者としてのノリントンの面目躍如たるところだろう。
ベートーヴェンの頭の中で鳴っていた第九がどんなものだったのだろうか、を想像するきっかけとなる貴重なCDと言えるだろう。

次回は、20世紀の大指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニが1939年に録音した個性的な第九を紹介しよう。

(ドクトルじんじん)